17 Rolling Stones 

2016年9月 Part10 藤田善宏
2016年8月 Part9 スズキ拓朗
2016年6月 Part8 青田潤一
2016年5月 Part7 田中たつろう
2016年4月 Part6 オクダサトシ
2016年3月 Part5 ぎたろー
2016年1月 Part4 山本光二郎
2015年12月 Part3 古賀 剛
2015年11月 Part2 鎌倉道彦
2015年10月 Part1 平原慎太郎

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――連載第4回のゲストは、2月に誕生日を迎えるコンドルズ最年長(!)山本光二郎さんです。ベテラン・メンバーは近藤良平さんと、劇的な出会いをした方が多いですが、山本さんも初対面は海外だったそうですね。

山本 ええ、ロサンゼルス(LA)のラーメン屋でした(笑)。彼がゲストダンサーとして参加していた日本のカンパニーがLA公演をし、僕はその打上げに参加したんです。当時の僕はLAで制作的な仕事、日本から来たカンパニーやアーティストのアテンドをしていて。笠井叡さんや、山崎広太さんたちとも、最初は向こうでお会いしました。当時、日米のコンテンポラリー・ダンス界は、結構繋がりが強かったんです。
 そこでは「日本でまた会いましょう」と別れたんですが、帰国してまた制作などの仕事をしていた頃、神奈川国体(かながわ・ゆめ国体 1998年)で良平と再会。そんなこんなで、気づいたら彼の結婚パーティに招かれていて、行ってみたら司会は小林顕作、コンドルズの余興はストリップだったという(笑)。

――衝撃的な展開ですね。

山本 ストリップといってもパンツ一丁くらいで、事前に渡されたオモチャのお札をそこに挟んだりして楽しむという、ミュージカル『フルモンティ』みたいな感じでしたけれど。そこに当時のメンバーだった大塚(啓一)ちゃんがいて、彼も僕と同じハゲ・キャラだったんですよ。それでシンパシーを感じ、コンドルズの公演を観に行くうち、良平から声をかけられた。彼には「ハゲを二人並べたら絵面が面白いだろう」という思惑があったんでしょうね(笑)。

――誘われて、参戦を即答されたのでしょうか。

山本 いえ、最初は季節労働者くらいの気持ちでした。当時は夏のツアーしか公演がなかったので、仕事の拠点はアメリカのままで、夏だけ戻ってコンドルズに出ていたんですよ。でも2、3年するうち冬の京都公演も定番になって。さらに春も……と公演が増え、メディアで取り上げられるようにもなって「こっちのほうが面白いな。じゃあ日本で仕事するか」と、段々生活基盤が移行していくような感覚でした。

――スゴイ、人生がコンドルズに向かってスライドして行かれた、と。

山本 ズルズルと流されて今日まで来ました。何かを決意せずここまで生きて来れたのは奇跡ですね(笑)。

――話が戻りますが、海外で仕事をされていたのは何故ですか?

山本 大学が体育系でアメリカン・フットボールをやっていたんです。現地で学びたいと思い渡米したのですが、折から湾岸戦争が勃発。世界の中での日本の立場など色々考えるうち、ビジネスの勉強もするべきだと思い直し、輸出入の勉強を始めました。まぁ丁稚奉公ですが、衣料関係の会社に入って。ビザの関係もあるので社員にはなれませんでしたが、当時は日本がバブル期で1ドル80円くらい。買い物目当てのお客さんも多く渡米してきましたし、需要が高かったんです。そのうち独立を思い立ち、アメリカからの輸入を中心とした古着屋さんでした。でも、アメリカでも芝居やダンス系のオーディションなどには、チョコチョコ顔を出していました。

――アメフトからダンスや舞台へ、という転身もかなりふり幅が大きいですよね?

山本 実は僕、コンドルズの中では唯一、幼少時にダンスをやっていた人間なんです。しかもクラシックバレエ。我が家は母も体育系で、幼児教育が専門だったので、近所にバレエ教室ができたときに僕と弟、三兄弟の下の二人を連れて行った。先生は谷桃子バレエ団のソリストだった方で、弟はじきにやめてしまったけれど、すっかりハマった僕は可愛がっていただきました。だから今の僕は、遠い昔に感染したダンスの「菌」が、発症したような状態なんです(笑)。
 アメリカで最初に手を出したのはエアロビクス。でもつまらなくてジャズダンスに行ってみたら面白く、ダンス界隈をウロチョロするうちコンテンポラリーの存在を知った。ノースカロライナ大学で毎夏、「アメリカン・ダンス・フェスティバル(ADF)」という、第一線の振付家を講師に招き、レクチャーやワークショップを受けられる大規模な企画がありまして。そこに、日本から団体でやってくる人たちの通訳兼ツアコンみたいな感じで潜り込み、色々な講座を受けて完全にダンス熱が復活してしまったんです。夏の二ヶ月はダンス漬け、という。

――元々、季節労働者気質なんですね。

山本 確かにそうですね。日本にお得意さんがいたので、なんとか会社の成績は保っていましたが、考えてみるとヒドい丁稚です(笑)。 

――しかもクラシックバレエの基礎を学んでいる。

山本 長く休ませ過ぎて、「菌」も変性していたようです。バレエ経験者なのに、振りが揃わないコンドルズが気にならないってオカしいですよね(笑)。
 そんな出自の違いも含めて、良平は僕をコンドルズに誘ったんじゃないかな。最初は僕が何者か、探り探りだったと思います。でも、彼は一貫して「自分のやっているグループに刺激を与える人間を加えたい」と思っている。僕の場合は大塚ちゃんとのフォルムの共通項と、英語がちょっとできるので、海外進出時に便利だと思ったはず(笑)。

――昨年、五大陸を制覇したコンドルズにとって、山本さんは大きな支柱だと思います。

山本 ツアー・コーディネーターとしては、多少役立っているかも知れません。海外に出るときは信用が大事。良平が芸術的な面で、日本で築き上げたもの海外に発信するとき、それだけは守らなければいけないと思っています。

――コンドルズは20周年という節目を迎えますが、山本さんのなかで、今後の活動で大切にしたいこと・やりたいことなどは、どのように考えていらっしゃいますか?

koga山本 うちは僕を含め、教員免許を持っていたり、教育系の研究・仕事に就いているメンバーが多いんです。その結果、最近では幼児から子どもまでを対象にした『コンドルズの遊育計画』が始まったし、その前は『からだであそぼ』、大人向けには「サラリーマン体操」などもやっている。NHKさんに依存するわけではないけれど(笑)、こういう本公演以外の展開が色々あるのは、コンドルズの体質に合っていると思うんです。それも最初からこの分野をめざしたのではなく、コンドルズの創作やアプローチが認められ、結果子どもたちとの企画が認められた、という順番も良かった。
 去年は、良平が6年前から始めた障がいを持つ方々とのユニット「ハンドルズ」の公演に、初めて参加させてもらいましたが、あのお互いへの信頼関係の強さや、思いも寄らぬ表現が生まれる瞬間などは、50にもなってまだダンスから新しい経験ができるものかと感動したほどです。
 さらなる展開を考えるなら……子どもたちはもちろん大事ですが、僕としては自分のことも含め、これからは高齢者層にアプローチしたい。番組ならば『おじいちゃんと一緒』、その“初代体操のおじいさん”とか、すごくやりたいですね(笑)。で、思いっきり自嘲ネタとかを盛り込んだ構成にしたい。コンドルズ版“揺り籠から墓場まで”、イケるんじゃないでしょうか!

――日本の未来にも、かなり貢献度の高い企画だと思います。

山本 うちの勝山がよく最近言うんですよ、「もういい歳なんだから、同じ年代の同級生に負けないくらい社会と文化に貢献しなきゃコンドルズをやってる意味がない」と。僕も確かにそうだと思う。もちろんコントは面白いし必然だし、荒唐無稽なこともコンドルズとしてはやらなきゃいけないけれど、ちょっと胸を張れるような仕事も、もっとできるようになれればいいなと。

――ソロやデュオを独立して発表するメンバーも増えていますが、山本さんはいかがですか?

山本 僕は……個人でどうこうはあまり考えていません。でも、最近気づいたんですが、メンバーにはコウジロウ、シンタロウ、タツロウ、タクロウ、ギタローと「ロウ(ー)」のつく名前が多い。これを集めて「ガンズ&ロー’ズ」なんてユニットを作るとかはどうかな、と。

――結構踊れるメンバーが揃っているので面白そうですね。

山本 そうそう、踊れないのは僕とギタローくらいだし。ただ僕が首領に、“ロウ名主”になるのは決定ですね(笑)。実行は25周年くらいかな、今は20周年に集中したいので。いや、20周年の前座でお披露目もありか……。

――何せ最年長ですから、そこは尊重してもらえるのではないでしょうか。

山本 そうですね、これ以上年齢が上の新メンバーは考えにくい(笑)。そんな、ちょっと姑息な企画くらいが僕は楽しめそうです。

TEXT by SORA ONOE