17 Rolling Stones 

2016年9月 Part10 藤田善宏
2016年8月 Part9 スズキ拓朗
2016年6月 Part8 青田潤一
2016年5月 Part7 田中たつろう
2016年4月 Part6 オクダサトシ
2016年3月 Part5 ぎたろー
2016年1月 Part4 山本光二郎
2015年12月 Part3 古賀 剛
2015年11月 Part2 鎌倉道彦
2015年10月 Part1 平原慎太郎

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――連載第3回のゲストは、鎌倉さんに続き1月のソロ作品を熟考中の古賀 剛さん。大学でのダンスとの出会い、海外留学中の華麗な遍歴などからお伺いしたいと思います。

古賀 私が進学したのは筑波大学の第二学群人間学類というところで、教育学と心理学、心身障害学の三つから構成されていました。心理学の勉強がしたくて選んだのですが、入学早々、心身障害学の人たちとの飲み会での議論がもとでボランティア・サークルに参加することに。一度授業以外の活動に目が向くと、急速に勉強への意欲が薄れ、かといってボランティアもそれほど密に活動するサークルではなかったので、他の団体を色々回ってみたんです。その見学先のひとつがダンス部で、当時の部長は今も振付家として活躍している平山素子さん。気軽な気持ちで覗いた私の眼前で、「うちは遊びじゃないから」と扉を閉じた彼女の態度に引かれ、入部を決めました。
 そこには若松美黄という、国際舞踊学会の理事を務める先生もいらして、「男が踊ってもいいんだ」と教えてくださった。舞踏の土方巽と同時期に作品を発表していた方ですが、二人との出会いが私をダンスにのめり込ませました。

――すぐに、後のコンドルズ・メンバーとの出会いもあったとか。

古賀 ええ、第一回は筑波が優勝した「神戸ダンスフェスティバル」という大学のダンス部のコンクールがあり、私はその第二回に参加したんですが、男性楽屋で最初に遭遇したのが石渕(聡)さん。「一言喋ったら友達」という感じの至近距離で迫られて(笑)、同じ時に(近藤)良平とも出会っています。確か青田(潤一)さんも参加していたんじゃないかな。「こんなに踊りをやる男たちがいるのか」とすぐに打ち解け、お互いの大学や家に遊びに行くようになりました。
 合間に良平は海外放浪に出かけ、帰って来る頃に僕は卒業。イギリスへの留学が決まっていたので、その出発前のギリギリに、良平と石渕さんとの三人での企画公演を、初めて人を集めてやりました。

――心理学探求のはずが、海外でダンスを学ぼうとまでのめり込んだのはスゴイ方向転換ですね。

古賀 僕自身、何故そうなったのかよく分かりません(笑)。高校時代は映画に興味があり、大島渚監督に弟子入りの直訴をしたこともある。でも、僕が書いた手紙に大島さんは「弟子を取ることは無い。君も師匠を誰とも決めるな。君の出会った人すべてが師匠だ」と、丁寧な返事をくださり、それは今も心に深く残っています。その後ダンスに出会い、映画に比べてはるかに小規模に、思ったことをすぐ形にできると知った。即断即決できる創作ジャンルだったことは、大きいと思います。

――渡英後のダンス遍歴がまた華々しいものです。

古賀 最初の一年はイギリスの、ファインアートで有名なゴールド・スミス・カレッジで英語の勉強をし、その隣りにあるラバン・センター(City University London)でダンスを学ぶ生活でした。周りには現代美術や音楽畑の留学生が多く、ダンスだけではなく、アートの視点でものを見る習慣がついたのは収穫でした。
 ラバン・センターで舞踊学を知ったことも大きい。理論を肉体で説明するため、動きや実践を必ず行う学問で非常に刺激的で面白かったんです。
 そんな勉強の傍らイギリスのダンスカンパニーのオーディションを受け、受かった先でも踊り始める。その頃にはロンドンでの生活も三年半に。ビザの更新の都合もあり、外国に出ようとドイツの「マインドキャップ」というダンスカンパニーのオーディションを受けて合格。子どもたちを対象にしたダンス教育、普及活動は興味深かったけれど、作品が合わず、今度はベルギーでアラン・プラテルなどの振付家が所属していた「レ・バレ・セ・ドゥ・ラ・ベ」を受け、こちらにも所属することに。一時は平日ドイツで踊り、週末はベルギーという生活を送っていました。「レ・バレ・セ・ドゥ・ラ・ベ」はダンサーと俳優、ミュージシャンの混成チームでの創作が当たり前で、コンドルズにも通じるものがあった。そのベルギー時代に、日本ではコンドルズが始動していました。
 ベルギーに遊びに来た良平に、ビデオを見せられ、その後、良平の伝手で鈴木忠志さんが芸術監督を務めていた頃のSPAC、そのダンスチームに所属していた藤田(善宏)もベルギーを訪ねて来て知り合い、次第に日本へ気持ちが向いていきました。

koga――帰国のきっかけは何だったのでしょう?

古賀 藤田の縁でSPACのダンス部にも所属しました。けれど、そちらは残念ながら解散。その頃から、ゲスト的にコンドルズの舞台に出てはいましたが、SPACダンス部の解散を機にダンスをやめようとも思ったんです。親が会社勤めをしていたので、自分も一度は経験しておきたいな、と。でも良平はああいう性格なので、週末しか参加できない僕のためのポジション、そのための踊りを作ってくれる。最初はコンドルズの一番外側にいたはずが、コツコツやるうちに段々距離が近づき、今に至るという感じです。

――その間に転職も経験されているのですよね?

古賀 人材派遣会社からIT系へと移り、今のコールセンターのシステムを販売する会社で4社目です。企業人としても自分の武器は持たなければいけないと気づかされるなど、仕事の世界でも人に恵まれ、気づかされることの多い時間を過ごして来れたと思っています。

――ビジネスマンとしても、外資系企業日本支社社長という看板を背負う古賀さんが、ダンスを続ける理由は何なのですか?

古賀 公には、私はダンサーとしては終わっていると思っています。良平が使ってくれるからコンドルズに出ているだけで、自分でも自分をダンサーとは呼べない。肉体を使い表現するパフォーマーではあるかとも思いますが。
 ただ、ベルギーの「レ・バレ・セ・ドゥ・ラ・ベ」で経験した創作は、今のコンドルズにも通じる、多彩な要素やパフォーマーがゴッタ煮状態のもの。それに僕らが言いたいことを言っても、トップにいる良平と勝っちゃん(勝山康晴)が最終的には頑張って作品にしてくれるので、申し訳ないけれどコンドルズでの創作は、ひたすらに楽しいんです。それは、簡単にやめられるものではないと、今改めて思います。

――コンドルズの活動は、メンバー個々の活躍を含め、年々広がりを見せています。古賀さんの目には、どのように映っているのでしょう。

古賀 彩の国さいたま芸術劇場で発表する作品は、コンセプチュアルで作品性重視のアート系。それ以外の、広くツアーを回すものはエンタメ色の濃いもので、加えて昨年からは幼児教育の新しい形を提案する「遊育」を始めた。この「三つの柱」が、今のコンドルズを象徴する大きなもののように思います。これほど幅広く、ジャンルを越えた活動を展開するカンパニーは、ダンス以外を見回してもあまりないでしょう。
 ツイッターなどで、プロフィールに好きなものを書く欄があるじゃないですか? そこに「落語・歌舞伎・コンドルズ」「狂言・落語・コンドルズ」などと書いている人が、よくいるんです。必ず「落語」と一緒なんですけど(笑)、それを見るたびコンドルズは集団というより、一つのジャンルとして認識してもらっているんだな、と嬉しくなるんです。「ダンスカンパニー」と名乗っているのは、そうしておかないと、どこへ行くか分からないから(笑)。そこは、勝っちゃんが絶妙の舵取りを今後もしていくと思いますが、25年、30年とまだまだ活動の幅は広がり続ける気がします。

――2014年に続いての、ソロダンスを集めた公演もその「広がり」の一つですね。

古賀 あのソロ企画がコンドルズにとってどういう意味を持つかより、コンドルズの中である意味自分が盛り立ててもらっているという、そのことが私にとって大きくて。事の起こりは08年、シアターアプルの最終公演『ラストワルツ』と同じ時期の京都公演で、僕のソロ「古賀んダンス」を良平が作ってくれたこと。あれ以降、一段とお客様との距離が近づき、コンドルズでの活動がさらに楽しくなった、私にとっての転機のようなピースなんです。
 そのピースをベースに、踊るたび色々なものが加味されていくわけですが、私にはサラリーマンであるという現実がある。だから、創作の場では感じられない時代感、安保法案を可決し、テロなども身近な恐怖になりつつあるなど、社会的な要素も作品に入れたいんです。そんな私なりのメッセージを込めた作品を、次回もお見せしたいと思っています。

TEXT by SORA ONOE